重度重複障害者の授業

肢体不自由養護学校における重度児の教育実践の整理のために

 

【連載終了】
 97.7〜99.2 全障研埼玉支部機関誌「SSCさいたま」に「重度重複障害者(児)の教育実践と教育課程編成を考える」と題して9回にわたって連載したものです。
 2000年3月に「平成11年度 長期研修報告書」を作成した際に再録しました。

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【連載1】
はじめに

第1章 授業を分析する
 (1)ゆさぶりあそび−社会的ほほえみの獲得をめざして
 (2)くすぐりあそび
 (3)「みる・きく」授業
【連載2】
 (4)「いないいないばあ」の魅力
 (5)変化する素材について
 (6)ストーリー性について
【連載3】
 (7)「はらぺこあおむし」の授業−定位活動を育てる
 (8)手遊び−動作模倣の力を育てる
【連載4】
 (9)あぶくたった−ごっこあそびの実践
(10)劇あそび

【連載5】
第2章 授業を整理する
 (1)「障害の重い子ども」とは
 (2)発達年齢4カ月の節
 (3)発達年齢10カ月の節
【連載6】
 (4)類型別教育課程編成の問題点
 (5)教科と「授業」
【連載7】
 (6)「活動の柱」

第3章 授業をつくる
 (1)授業の要素
 (2)わかること
 (3)自分でやること
【連載8】
 (4)肢体障害に対する配慮
 (5)教材と教具
 (6)生活年齢(ライフステージ)を配慮した教材、授業
 (7)「生活」の教材化
 (8)授業ではどんな活動を柱にすえるのか
 (9)教員の役割
(10)「領域」について
【連載9】
(11)集団編成について
(12)授業計画

おわりに

 

【連載1】

はじめに

 今日、埼玉県の肢体不自由養護学校に在籍する児童・生徒のほとんどを重度・重複障害者(児)が占めるようになっています。

 この重度・重複障害者(児)に対する授業づくりの取り組みもすすんできてい ます。それは生活とは区別された論理と空間と時間のまとまりをもったもので、行動様式や生活態度の形成そのものを目的とした「訓練」では替えることのできない学習の領域です。ここでは、こうして蓄えられてきた教育実践を分析・整理し、教育課程編成についても若干の検討を加えたいと思います。

 

第一部 実践の分析

 

(1)ゆさぶり遊び−社会的ほほ笑みの獲得をめざして

 

 ゆさぶり遊びとは、「赤ちゃんの時期の抱っこやタカイタカイ等のように身体を動かしてやる大人とのふれあいを深める遊び」と考えられます。

 開校当初、和光養護学校の教職員は障害の重い子どもの実践を試行錯誤する中で、東京や京都の実践に学びながら毛布ブランコのゆさぶり遊びをとりいれました。子どもたちはたちまちこの毛布ブランコが大好きになりました。そうした子どもたちの笑顔に励まされて教員たちは教育的な働きかけをはじめます。子どもたちの「笑顔」を手がかりとしながら子どもたちの喜ぶゆさぶり方を探っていきました。さらに子どもの実態に応じて、「ゆさぶるときの歌や毛布をシンボルとして見通しを育てること」、「まなざしや表情、動作や発声などで要求を伝えられること」、そして、「子どもと大人との共感関係、信頼関係を育てること」とゆさぶり遊びの教育的なねらいを深めていきました。

 ここでは乳児期前半の子どもたちの「ゆさぶりあそび」について考えてみます。「ゆさぶられること」(姿勢の変化)が必ずしも子どもたちの喜びになるわけではありません。急激な姿勢の変化は恐怖ともなりえます。ゆさぶり遊びの喜びは、こうした恐さと紙一重の微妙なバランスの上に成り立っています。また、一人ひとりによって、刺激の受けとめ方に大きな違いがあります。そこで、どうやったら子どもたちが安心するのかを子どもたちの「笑顔」を手がかりとして、探ることからはじめます。

 ゆさぶり遊びにおける笑いは、必ずしも大人との感情交流に基づいているとは限りません。やり方が不十分な場合には感情交流を発展的に保障するものとはならないこともあります。子どもが笑っているから、喜んでいるからといって、大きくゆさぶるだけだったり、ゆさぶり続けるだけだったら、そのあそびを通して子どもと教師との関係が育つ取り組みにはなりません。私たちは、ゆさぶり遊びで、大人が子どもとしっかり向き合うことを大切にします。子どものリズムを考慮しながら小さくゆさぶったり、ゆっくりゆさぶったり、途中で止めて、ゆさぶりのはじめと終わりを意識させたりすることなど大切にしています。ゆれが大きくなければ笑わなかった子が、小さいゆれでも笑顔が出るようになるということは、大人との関係で笑えるようになったと考えられます。

 乳児期前半の発達段階は従来「笑顔獲得期」とも呼ばれてきました。笑顔を獲得することは重要なことですが、「笑うこと」自体が教育目的になるものではありません。ここでは大人と笑い合える対人関係(「情動的共感関係」)をもとに、生理的ほほ笑みが社会的ほほ笑みに育ってゆくことが大切なのです。そして、まさに『あやし・ゆさぶり』あそびはそうした教育的ねらいをもって取り組まれるものであるといえるでしょう。

 

(2)くすぐり遊び

 ゆさぶりあそびの面白さは、平衡感覚の変化やそれと結びついた身体の筋肉感覚の変化によって子どもの興奮がひきおこされるところにあるといわれています。くすぐりあそびも、姿勢の変換こそありませんが、ゆさぶりあそびと共通した感覚に由来するとされています。

 はじめは、ゆさぶりやくすぐりの刺激そのものが喜びの源泉ですが、次第に、子どもたちは快感をもとにして、くすぐってくれる大人を認め、親しい大人との間で笑い合うことができるようになって行きます。六カ月前後の発達段階の子どもたちもゆさぶり・くすぐりあそびが大好きですが、この段階では、ゆさぶりやくすぐり

の刺激そのものよりも大人と共感し合う喜びが大きな比重を占めるようになります。

 大人からの働きかけに応えて笑えるようになった段階の子どもたちに、私たちが次に獲得させたいと考えるものは「期待感」です。同じあそびを繰り返す中で、ゆさぶりやくすぐりの前に期待してかまえたり、笑ったりするようになって欲しいと思っています。「期待感」を育てるねらいをもって、くすぐりあそびに取り組んでいます。 

 ♪はち はち ごめんだ

  おら まら ぼやら♪

  ぶうーん  チクン!

  いて、て、て、て・・・

  これは、子どもをだっこして、あるいは向かい合って行うくすぐりあそびです。

 教師の人差し指の先が「はち」になります。「はち はち」から「ぼやら」までは歌に合わせて子どもたちの顔の前で指先を左右にゆっくりと動かします。そして、「ぶうーん」のところで、「はち」が円を描くように飛んで、子どもの期待をかきたてます。このとき子どもが指先を追視してくれたり、にっこりとほほ笑んでくれたりするとやっている方も嬉しくなります。そして、「チクン!」とほっぺなどを優しく刺して、その後すぐに「いて、て、て、て」といいながら刺された所を撫でてあげるのです。

 実際の指導では、くすぐるまでの『間』を大切にしています。例えば「はち はち ごめんだ」では、「チクン」と刺したあとに「いて、て、て、て・・・」の場面で笑顔で共感するだけでなく、はじめる前に視線を合わせて「さあ、いくよ」という視線や表情を見せること、「ぶうーん」の場面で期待感をかきたてることを大切にしています。

 これはゆさぶり遊びでも同じことで、ハンモックでのわらべ歌にあわせてゆさぶりでは、ただゆさぶり続けるのではなく、区切りをはっきりさせるようにします。ゆさぶり終わった後はもちろん、ゆさぶる前に「さあ、ゆさぶるよ」と、しっかりと視線をあわせ、語りかけたりすることが大切だと考えています。

 繰り返してあそぶ中で、歌がはじまると身構えたり、大人の顔を見て笑ったりするような期待感が育ってきます。これは、一定の対人関係の育ちと『見通し』の育ちの上に成立すると考えられます。

 

(3)「みる・きく」授業

  さて、重度障害児の中には視覚そのものに機能的な障害があるわけではないのに「見る力」の弱い子どもたちが少なくありません。

 健常児の場合、新生児期の早い時期から外界の変化や働きかけに応答性を示すことが知られています。その多くは原始反射などパターン化したものですが、それだけではない応答性もみられます。外界を取り込み、働きかえすことの芽生えです。

 「みる」ということでいえば、新生児期から追視があるといわれていますが、視覚を介した外界との結びつきは持続しません。明瞭な追視が安定的に見られるようになるのは生後2〜3カ月からです。また、この時期は、養育者である大人との結びつきが強い時期です。追視など見る能力は「大人を見て、笑ったり泣いたりする力」(共感・コミュニケーションの力)と深く関連しながら発達していきます。

 私たちは乳児期前半の段階にいると思われる子どもたちに「何とか見て欲しい」「外界に気づいて気持ちを向けて欲しい」というねがいをもって様々な「見る」授業を試みます。

 かつてスライドを見せる授業を行ったことがあります。真っ暗な部屋の中でスライドの光が当たるスクリーンだけが明るいということになれば、きっと子どもたちが気持ちを集中させて見てくれるのではないかと思って取り組みました。しかし、「みること」の質を検討するなかで、光などの刺激に対して注視・追視ができるを否定するわけではないが、その注視・追視の力が親しい大人や友だちをしっかり見ることにつながっていなければ主体的に見たり聞いたりすることで外界を取り込み、働きかえす力は育たないということを学びました。

 さらに「みる」力は、乳児期後半には、大人が指さした先のものも見られるようになっていきます。いわゆる三項関係が形成されます。

 さて、乳児期前半では「みる」力を育てる教材は教師そのものが一番いいのではないでしょうか。特別な教具はなくても構いません。教師がやさしく歌いかけたり、わらべうたやゆさぶり遊びなどのふれあいの中で、子どもが「大人そのもの」に注目させたいものです。

 子どもたちが関心を示し、子どもたちの興味をひくものはなんだろうといろいろ探すことはいけないことではありませんが、「刺激を強くすれば見てくれるのではないか」とより強い光、より強い音を求めていくことは、「人を求める力」を育てることがおろそかにされる危険性があるので、注意したいものです。 

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【連載2】

(4)「いない、いない、ばあ」の魅力

 生後6カ月前後の乳児は「いない、いない、ばあ」が大好きです。この遊びは、親しい大人との間で視線を合わせ、笑いあう共感関係の育ちを基礎にしています。そして、大人の声かけを支えにしながら、一度視界から消えて見えなくなった人を見続けたり、再び現れてくることを期待し続けたりすることでこの遊びは成立します。また、こうした遊びの中で、子どもたちは外界の変化に対する期待感や見通しをさらに育てて行くのだと思います。

 障害を持った乳児期後半の子どもたちの場合、大人からの働きかけには笑顔で応えるが、自ら笑いかけることはできない、といったように発達に弱さをもった場合も多いようです。そこで、そうしたことも考慮しながら、私たちは「いない、いない、ばあ」の面白さを取り入れた遊びを考えました。 

 ♪トントントン こんにちは

  なかから へんじ

  ブーブーブー ブーブーブー

  あーら ぶたさん

       こんにちは♪

  これは、湯浅とんぼ作詞、中川ひろたか作曲の「とびらのむこうにすてきなひと」という歌です。この歌の一節から「トントントン、こんにちは」という授業の名前がつきました。

 上半身が隠れる位の大きな段ボール箱で作った家があります。その真ん中には取っ手のついたドアがついてます。子どもたちが坐位をとったときにちょうどドアが顔の位置にくるように高さが合わせて置いてあります。(図1)

 教師は子どもを抱いて、「♪トントントン、こんにちは、なかからへんじ♪」と歌いながら、一緒にドアをノックします。家の内側には、別の教師が入って待っていて、「はーい、どなたですか」「ドアを開けて下さい」などと声をかけます。子どもの名前を呼ぶこともあります。このようにして姿は見えないけれど、子どもの気持ちは隠れている教師に向けられるようにします。

 子どもは手を伸ばして、取っ手を引っ張ります。緊張が強かったりして手が伸ばせない子には、教師が取っ手をつかませるように援助します。取っ手は子どもが持ちやすいようにビニールホースで作ってあります。また、ドアはゆっくり開くようにひもにおもりをつけて調整してあります。

 ドアが開いて、中から先生の顔や指人形などが登場して、『ご対面』となるわけです。ドアを開けた子どもは、先生と顔をしっかり見合わせたり、指人形と握手したりします。また、子どもの好きなオモチャを受け取ったりすることもあります。

 このようなことを子どもたちが交替で、順番に行うのです。

 

(5)変化する素材について

 変化する素材とは、子どもが手や身体で直接働きかけたときに、形を変化させる教材の総称です。人によって何をそこに含めるのか多少違う場合もありますが、水、砂、土、紙、粘土などは「変化する素材」といえます。

 従来から、話し葉獲得にむけた時期の発達の基礎成分は、「手の働き」「道具」「変化する素材」「集団」であるといわれてきました。「変化する素材」に「道具」を使って働きかける中で、手の操作性を高め、「道具」をその用途を理解して使えるようになっていくことが、実践によって確かめられています。また、子どもの集団的行動を育てる上でも、変化する素材は重要な役割を果たします。変化する素材を豊かに保障し、素材を媒介にして子どもたちの集団的行動を育てるというのです。

 しかし、これを「話し言葉を獲得してない段階では変化する素材が有用な教材である」と一般化していいものでしょうか。

 乳児期前半の時期であれば、素材の感触をしっかり受けとめるというねらいの「感覚遊び」の教材としての意味があると思います。

 次に、9カ月以前の乳児期後半段階の場合について考えてみます。この段階の子どもが「変化する素材」にかかわるとき、子どもの心が解放され、一緒に遊んでいた教員と心が通じ合うといったような効能があることは重々承知しています。しかし、道具を道具らしく使うには、まだ、象徴機能の発達が十分ではないので、あそびが常同的に感触を楽しむものとなり、広がらないことも多くみられます。

 また、後述しますが、十カ月の発達の節をこえるためにはものを手渡したり、容器に入れたり、積んだりするような「定位活動」というの新たな能力の獲得が必要です。この定位活動の獲得という面から考えると、しっかり持てるものがふさわしい教材で、「変化する素材」はあまりふさわしい素材とは言えないような気がします。

 『変化する素材』だけに限ったことではありませんが、「子どもが喜んでいるから」という教材選択の基準だけでなく、授業のねらいとの関係で本当に意図した活動を子どもがしているのかという見方が大切だと思います。

 

(6)ストーリー性について

 授業づくりにおいて、ストーリー性が大切であるといわれています。一般的には、子どもへの声かけが具体的で、豊かになり、授業の起承転結が作れるというようなことがあります。授業は発達課題を訓練的に繰り返すものではなく、文化を伝えるものですから、「ストーリー性」も大切な要素ではあります。しかし、無条件で「ストーリー性」を強調することはできません。

 乳児期後半(9カ月以前)の段階では、繰り返し授業に参加する中で、「〜したら〜する」「〜の歌で〜する」など道具や歌を支えとしながら簡単な見通しが育ってきます。しかし、子どもたち自身が授業全体のストーリーを見通すことはできません。それだけでなく、場合によっては、子どもの「繰り返しもっとやりたい」という意欲を授業のストーリー性が抑制することもあるので注意したいものです。

 子どもに「がまん」を求めるのはもっとあとの段階になってからでいいのではないでしょうか。 

 

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【連載3】

(7)「はらぺこあおむし」の授業 −定位活動を育てる−

 十カ月の発達の節をこえると、子どもはオモチャやものを積んだり、大人に手渡したりすることができるようになります。この手渡したり、積んだりすることを「定位活動」と呼びます。

 この定位活動を獲得すると子どもの生活は質的に大きく変わります。それまで散らかしていただけのものの操作が、握ったものを自分の視界の中でしっかりとらえることができるようになり、なぐり描きなども生まれてきます。ものの操作に広がりがでてくるのです。人との関係にも変化があります。渡そうとするとき自分の持っているものと相手の顔を見比べたりするようになってきます。それまでが「自分と相手」という二項関係の世界だったものが、「自分と相手と第三者(もの)」という三項関係の世界を認識するようになっていくのです。

 それでは、どうしたら「定位活動」を獲得されることができるのでしょうか。

 まず、「定位活動」を獲得する前提として、容器の中のものを容器から区別して認識できることがあげられます。さらに、「入れる」前に「出す」活動が十分に保障されなければなりません。教師とその楽しさを共感しながら、散らかす遊びをたっぷりと取り組みます。

 その上で、大人が支えとなって「定位活動」をつくっていくことが大事だと考えます。ここで問題なのは、大人とあそびを共有しにくい子のあそびの中にどうやって入って行くのか、「ちょうだい」に応えて手渡す行動をどう獲得させるかといったことです。

 さらに、十ヵ月前後の発達段階では子どもたちが「入れたいけれど、入れられない」「渡したいけれど、渡せない」「道具を使いたいけれど、使えない」というような矛盾を抱えていることが多いといわれています。この時、肢体障害がある子どもの場合には、子どもの気持に寄り添って、教師が手を添えて一緒に行うという指導も必要です。この時期の子どもたちは、「ことば」による指示では内容を十分に理解できないので、具体的な体の「動き」を通して学んでいくことがいいようです。

 乳児は、箱にものを入れることを獲得する前に大人の口に食べ物を運ぶそうです。「入れる」ということを獲得させようとするときにも、「ただ、箱にいれなさい」というのでなく、人形の口にたべものを入れる学習にしたらどうだろうかと考えました。そこで私達は絵本の「はらぺこあおむし」をもとに、腕までかくれるあおむしの人形を作り、その口に食べ物の模型(ときには本物)を食べさせるという教材を考えた。必要に応じて、あおむしの方から食べ物を迎えにくという支えを入れられるという利点もあります。

 「♪ころころ たまごは〜♪」の歌にあわせて小型のフラフープに紙を貼った「タマゴ」が登場します。殻(紙)を破って中から登場するのはあおむしくんです。あおむしくんは、教師の肘までがすっぽり隠れるようになった自作の布人形です。丸い頭には、大きな目玉と赤い布をつけたぱっくりと大きく開く口がついています。ゴムシャーリングした胴体は、この口から入れられた食べ物がたまると膨れるようになっています。紙を少しずつ破りながらでてきます。

 教師を操る教師があおむしと一心同体となって「おなかがぺこぺこなんだ。何か食べたいなぁ。」と話します。子どもたちは、実態に応じて、教師に渡されたものを受け取って食べさせたり、いくつかのものの中から自分で選んで食べさせたりします。こうして満腹になったあおむしは、静かなBGMを聴きながら、布団にもぐって眠ります。

 「アルルの女」のメヌエットの曲が流れ、華麗な姿に変態した蝶が登場します。蛍光色の布を羽根にした教師の演じる蝶です。この蝶は「みんなのおかげで、おなかいっぱい食べて、蝶になれました。」とお礼を言いながら子どもたちの間を飛び回って去っていくのです。 

 繰り返して「入れる・積む・渡す」といったことをさせられていると形式的に「ものの操作」を覚えてしまいますが、子どもの気持ちに寄り添いながら、「渡したい・積みたい・入れたい」という気持ちを育てることを大切にしたいものです。

 

(8)手遊び−動作模倣の力を育てる

 発達段階が十カ月くらいになると簡単な動作の模倣ができるようになります。そうすると一部分ではありますが、いろいろな手あそびが自分でできるようになります。

 さて、それ以前の段階、模倣の力を育てる時期に私たちが大切だと考えていることは、一つは大人だけを見るのでなく、大人の動作や持っているものにも注目できることです。親しい大人を見比べて選択する力を基礎に、大人だけでなく大人のもっているものややっていることにも目が向けられるようになることです。

 もう一つは、大人の出した手に子どもが手を添えてくることや直接手をつないで動かしてあげる中で子どもから手を動かすようになることなど、大人からの働きかけに応えられるようになることです。

 ここでは後者のあそびの一例として「あらって、あらって」を紹介します。 

  ♪あらって あらって

  (3回繰り返し)

  ひとまわし

   すすいで すすいで

  (3回繰り返し)

   ひとまわし

   しぼって しぼって

  (3回繰り返し)

   ひとまわし

   ほして ほして

  (3回繰り返し)

   ひとまわし

   すっかりきれいになりました♪

 

 教師は子どもと向かい合って両手を持ちます。「あらって、あらって」で、歌に合わせて交互に手を前後に動かします。「ひとまわし」では両手を一緒にぐるっと回します。次に、「すすいで、すすいで」で、歌に合わせて交互に手を上下します。「しぼって、しぼって」では、歌に合わせて両手を交差させます。「ほして、ほして」では、歌に合わせて両手を上下させます。最後に、「すっかりきれいになりました」で、教師が子どもの顔や体に優しく触れて語りかけます。

 なお、子どもの上肢にまひがある場合には動かし方を工夫します。

 このあそびを繰り返し行う中で、教師が手を回す前に自分から手を動かしてくるようになった子どももいました。 

 もう一つ、大人の出した手に子どもが手を添えてくる手遊び「おててさん」を紹介します。

 

 ♪ぽん ぽん ぽんの

  おててさん

  なかよく しようよ

  ぴったんこ♪

  「なかよくしようよ」の時に教師が子どもたちの目の前に手のひらを出します。「ぴったんこ」で子どもたちが自分の手を教師の手に重ね合わせてくるのを待ちます。

 

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【連載4】

(9)あぶくたった −ごっこあそびの実践

 

♪あぶくたった にえたった

 にえたか どうだか たべてみよ♪

 机の上には本物のナベ、そのまわりには子どもたちが集まってきました。子どもたちの目はそのナベに釘付けです。ここまで歌い終わって、ふたを教師が少しだけあけると「自分でふたをあけてみたい」という気持ちが高まって、ふたに手が出てきました。

 ふたをあけた子どもがナベの中から食物模型を取り出して食べるまねをします。

♪むしゃ むしゃ むしゃ

 まだ にえない♪ 

 さあ、もう一回。

 これは十カ月をこえ、話し言葉を獲得しつつある子どもたちの「〜のつもり」「〜ごっこ」というイメージする力を育てようというねらいで取り組んでいる「あぶくたった」というごっこあそびの一コマです。

 この段階では、まだ「ことば」と結びつけてイメージすることは困難です。道具や具体的なものを支えとしてイメージ(心像)をもち始めている段階です。

♪むしゃ むしゃ むしゃ

 もう にえた♪ 

 さあ、ふたを取って、みんなで食べましょう。お皿に食物(模型)を分けます。自分でとれる子どもには選ばせます。「いただきまーす」で食べるまねをします。食べ終わったら、「残ったものは冷蔵庫(私が子どもの頃は戸棚だったように記憶しています)にしまっておこう」といって、冷蔵庫のふたを開けてしまいます。冷蔵庫は大きな段ボール箱や演劇で使ったドアを利用してつくりました。

 オリジナルでは、ここから「さあ、ねよう」となるのだったかもしれませんが、私たちは生活に密着した「お風呂」をごっこあそびの中に取り入れてみました。「ご飯を食べたからお風呂に入ろう」といって準備しておいたタオルと洗面器を出してきます。この段階のごっこあそびは小道具が大切です。タオルなどによってお風呂のイメージがぐっと広がっていきます。

 

♪(みぎて)を ごしごし

 (みぎて)を ごしごし

  ごしごし あらいましょう

 (みぎて)を ごしごし

  あらいましょう

  すっかり きれいになりました♪

 *( )の中をいろいろな部分に

   替えて歌います。

  先生の歌う歌にあわせて身体を洗います(実はこれ、乾布摩擦、湿布摩擦の時に歌っている歌なのですが)。ごっこあそびなのですから、なにも上手に洗える必要はありません。先生に身体を洗ってもらうだけではなく、子どもたちが先生を洗うこともできます。背中などはみんなで同じ方向を向いてまるくなって「洗いっこ」すると面白さも増します。 

 お風呂からあがって、いよいよ就寝です。小道具には布団や毛布を用意します。教室の電灯を消して、カーテンなどを引くといっそう雰囲気も出るでしょう。この段階の子どもたちに「目をつぶって寝るまねをしなさい」ということを求めることは無理なので、身体を横にしていればいいことにします。

 トン、トン、トン。冷蔵庫の後ろから音が聞こえてきました。先生のリードでみんなで声をそろえて「なんの音?」ときいてみます。「風の音」という返事が返ってきました。「あー よかった」と安堵してまた床につきます。再び、トン、トン、トンと音が聞こえてきます。今度は「ねこの歩く音」だったり、「雨の音」だったりします。その度に「なんの音?」ときいて、「あー よかった」と再び寝ます。繰り返す回数は子どもたちの反応を見ながら判断して下さい。そして、最後に「なんの音?」ときかれたら、「お化けの音!」といって冷蔵庫の中からシーツをかぶった先生の登場です。お化けが子どもたちを追いかけて、捕まえてこの遊びは終わります。

 

(10)劇あそび

 道具などをシンボルとして、「〜のつもり」になったり「〜のまね」をしたりしてイメージを広げる活動といっても、生活年齢の高い子どもたちには「演劇(劇あそび)」はどうでしょうか。

 一般に「劇あそび」というと、子どもたちが役になりきって演じることをねらいとした教育活動ですが、ここでは「あぶくたった」などのごっこあそびと同じねらいをもった活動として考えます。「演劇(劇あそび)」といっても物語のストーリーをすべて見通したり、役を演じたりということをねらうわけではありません。大人や友だちをモデルとした動作の模倣、方向性のある動き、定位的活動(入れる・渡す)などの活動をおこなうものです。

 「十ヵ月をこえた段階の子にごっこが大切だといわれる。そこで劇遊びに取り組んでいるが、うまくいかない。どうしたらいいのだろう。」ということをよくききます。

 この段階ではストーリー全体を見通して劇を楽しむことは難しいと思います。絵本やペープサート、人形劇などを見せて、すぐに「さあ、劇遊びをしましょう」というのは難しいのではないでしょうか。「絵本」と「劇遊び」との間をつなぐ物があるのではないでしょうか。私は仮説的にですが「大人がモデルになること」を考えています。大人や場合によっては友だちの動きを見て、それをモデルとして自分が何をするのかがわかっていくということです。そして、絵本やペープサート、パネルシアターを見たり聞いたりしての理解はその後に位置づけられるのではないか。言うなれば、「大人がモデルになること→劇遊び→絵本」ということになります。1時間の授業のなかでは「導入」として位置づけられている絵本やパネルシアターがその「単元」のなかでは「まとめ」として位置づけられるのではないかということです。場面場面の模倣を楽しみながら、子どもたちは「劇遊び」に参加していくのではないでしょうか。そして、絵本やパネルシアターと劇遊びで児童生徒の楽しいと思うところはそれぞれ違ったとしても次第に関連させてくれるようにと考えています。具体的には、簡単な台詞や動作などで共通する物があるのでそれを手がかりに子どもたちは理解するようです。

 具体的な教材選択にあたっては、次のような事項に配慮しています。

・ストーリーが複雑でないこと

・繰り返しがあること

・子どもが模倣しやすい動作やことば(擬態語や擬音語が有効)が含まれていること 

 このような視点で本校の小学部で選ばれてきた教材としては、「おおきなかぶ」「てぶくろ」「のせてのせて」「ぞうくんのさんぽ」などがあります。

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【連載5】

第2部 実践の整理

 

 ここまで数回に分けて重度・重複障害者(児)の教育実践を紹介してきました。どれも校内でおこなわれているごく一般的な実践です。

 79年から養護学校の義務制が施行されましたが、重度・重複障害者(児)に対する学校教育が本格的にはじまったのはこの時からです。本校でも試行錯誤で実践を蓄積してきました。それと同時に、実践の分析をおこなってきました。「その教材は、どういう子どもたちに、どこの部分が、どのようによかったのか」という分析を集団的論議を経てすすめてきました。


(1)「障害の重い子ども」とは

 さて、重度・重複障害者(児)とか障害が重い子どもとかいっていますが、どういう子どもたちのことなのでしょうか? 肢体障害の養護学校で「障害が重い」といったときには、肢体障害のあらわれとしての「重さ」であったり、認識力の低さという意味での「重さ」であったりします。そして時には基本的生活習慣の指導や介助などで手がかかるという教職員の主観的な意味でも使われたりします。九七年一月に刊行された「障害の重い子どもの教育実践ハンドブック」では、最初に大久保哲夫氏がこのあたりのことについてコンパクトにまとめていますので、ご一読をおすすめします。

 現在、埼玉の肢体不自由養護学校に通っている子どもたちのことを考えると、肢体障害と知的障害をあわせもち、知的な発達で「話し言葉」を獲得する以前の段階(知的な発達年齢でおおよそ一歳半くらいまでの段階)の子どもということができます。ここではこの段階の実践について考えていきたいと思います。

 従来、発達心理学では1歳半までを「乳児期」と呼び、六カ月を境としてそれ以前が「乳児期前半」、それ以降が「乳児期後半」と区分することが多かったようです。

 「どの子どもにどんな教材がいいのか」と発達段階と教材との関連を考察していくうちに、発達年齢四ヶ月くらいと一〇ヶ月くらいを境に、一歳半までの段階をさらに3つの段階に区分するのがいいのではないかと考えるようになりました。これは教育実践からの経験則ですが、私は教育的な段階区分として考えています。

 

(2)発達年齢四ヶ月の節

 肢体不自由の養護学校には、人数が多いとはいえませんが発達年齢四ヶ月以前の子ども達が在籍しています。この四ヵ月を境としても子どもたちの姿は大きく変化します。それでは教育実践上ではどのように違ってくるのでしょうか。

 それ以前では人との関係なども生活の基盤に大きく影響されます。快の状態を整えることが学習が成立するための前提条件になります。子どもが生理的に快い状態の時に教員の方からていねいに働きかけることが大切です。

 子どもと指導者との関係では、四ヵ月の前でも後でも、ともに一対一の関係が中心であることには変わりありませんが、四ヵ月以降の段階になると、子どもが親しい大人を選択できるようになり、「あやし遊び」「ゆさぶり遊び」などの中で教員と共感して笑いあうことができるようになります。好きな大人との間で「くすぐりあそび」や「いないいないばあ」などの活動が成立するようになるのです。また、好きな大人を選択できるようになり、欲しいものに手がのびるようになるなど、それまでの受け身の生活から自ら外界へ働きかける生活にかわります。子ども自身が主体的にかかわる授業をつくることが大切になってきます。

 最近の発達心理学では、この四カ月ころというのは「新しい発達の原動力」が生まれる時期として注目されています。田中昌人氏らの「可逆操作の高次化における階層−段階理論」によれば「六ヶ月」頃に発達の質的転換期があり、そしてこの発達の質的転換期を達成するための力(「新しい発達の原動力」)は四カ月頃に生まれるとされています。白石正久氏は次のように述べています。

 『この時期(引用者註・生後二ヶ月から三ヶ月)の「向きたいのだけれど向けない」矛盾・葛藤を喜びをもって乗り越えると、あやしかけに応えるばかりだった微笑も意味を変え、自ら他者に笑いかける主体性を獲得していくのです。また、自分からおもちゃやほ乳瓶に手を出そうとすることでしょう。大好きな人のもっているおもちゃなら、いっそう取ろうとする意欲が高まり、一つだけではないもうひとつのものに視線を向けたり、おもちゃとそれをもっている人の顔を見比べたりするでしょう。つまり、矛盾・葛藤の時期を乗り越えた強い主体として成長し、微笑によるコミュニケーションの主人公になり、手の主人公になっていくのです。そして、ひとつだけではない、もうひとつの対象にも目を向けるほどの意欲をもって、要求の主人公になっていくのです。』『目前の対象へ「取りたい」「近づきたい」などというはっきりした願いをもち、新しい質の矛盾・葛藤を乗り越えていくべき段階へいたるのです。』(白石正久・発達障害論第一巻 研究序説、一九九四年二二〜二三頁)

 

(3)発達年齢一〇カ月の節

 発達心理学でいう乳児期の後半とは六、七ヵ月から一歳半ばくらいまでを指します。ところで、一概に乳児期後半といっても一〇ヵ月を境として子どもたちの姿は大きく変化します。重い障害を持つ子どもたちの中には、ここの節を乗り越えられずに、つまづいている子も多いはずです。

 教育実践上、一〇ヵ月の前と後で次のような違いを指摘できます。

 一つは、子どもと指導者との関係・子ども集団のもつ意味という側面です。その前の段階では主に指導者と対面での一対一の関係が中心であったものが、一〇ヵ月以降の段階では、指導者との間に空間的、時間的『間』をおくことができるようになり、大人の意図を理解し、叱られたことがわかるようになります。大人に憧れ、まねをしようとし、先生や友だちが、行動のモデルとなりえるのです。手遊びなどの動作模倣が楽しめるようになります。また、大人の支えを必要としながらも、友だちや外界にも意識を向けられるようになるのです。ペープサートや絵本などにも気持ちを向けることができるようになります。さらに、『大人がやる劇をみる?大人のやっていることを自分でもやってみようとし、ごっこ遊びを一緒にやる』という順序で、「劇遊び」の授業が可能となってきます。

 さらに、教科内容や教育内容の側面でも大きな違いがみられます。一〇ヵ月以降の段階では、道具を道具らしく使おうとするようになるので、例えば「音楽」では打楽器を打ったりなどできるようになるし、なぐりがきではありますが「描く活動」が成立するようになります。言葉や音楽を聞いて、あるいは道具やその他のものを見て、何をやるのかが分かるようになるのです。結果を見通してする活動が成立するようになってきます。時間的、空間的に間接性を持った世界が成立しはじめ、はなし言葉やシンボルが成立しはじめます。

 外界の操作の仕方の違いでいえば、それまでにリーチを獲得し、持ち替えたりはできるが離すことはできなかったものが、一〇ヵ月をこえると、渡す、積む、入れるといった操作(定位活動ともよばれる)ができるようになってきたのです。

 発達心理学では、この一〇カ月も、四カ月と同様に、「新しい発達の原動力」が生まれる時期として注目されています。田中昌人氏らの「可逆操作の高次化における階層−段階理論」によれば「一歳半」頃には発達の質的転換期があり、そしてこの発達の質的転換期を達成するための力(「新しい発達の原動力」)は一〇カ月頃に生まれるとされています。

 幼児期の発達段階への質的転換のための原動力の発生した姿を白石正久氏は次のようにいっています。

 『この時期(引用者註・生後九ヶ月ころ)の「行きたいのだけれど行けない」、「さわりたいのだけれどさわれない」矛盾・葛藤を喜びをもって乗り越えると、たとえば自らの指さしで感動を伝えようとする主体性を獲得していくのです。そして、他者のしていることに憧れ、同じ道具で同じことがしたくなります。この時期から大好きな特定の大人を媒介にして、他の大人や友だちへと、人間関係を拡大しはじめます。つまり、矛盾・葛藤の時期を乗り越えた強い主体として成長し、指さしによるコミュニケーションの主人公になり、道具の主人公になり、人間関係の主人公になっていくのです。そして、自分の意図だけではない、他者の意図にも目を向けるほどの意欲をもって、意図を選択する主人公になっていくのです。』『「○○がほしい」「○○がしたい」などというはっきりした願いをもち、新しい質の矛盾・葛藤を乗り越えていくべき段階へいたるのです。』(白石正久・発達障害論第一巻 研究序説、一九九四年二五頁)

 このようにして発達年齢一歳半までの段階を、おおよその発達年齢四ヶ月までの段階(教育段階T)、五カ月から九ヶ月までの段階(教育段階U)、さらに一〇カ月から一歳半くらいまで(教育段階V)に区分して教育実践を整理することにします。

 

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【連載6】

(4)類型別教育課程編成の問題点 

 次に、いままで紹介してきたものも含めて教育段階ごとに教材を整理してみようと思います。

 その前に、文部省が学習の大綱を定める学習指導要領では、重度・重複障害児の教育内容をどのように定めているのか見ておくことにしましょう。

 一九七九年の養護学校義務制実施を契機として障害の重い子ども達の教育権が保障されました。今日埼玉県の肢体不自由養護学校では、児童・生徒のほとんどを重度・重複障害者(児)が占めるようになっています。

 しかし、学習指導要領では、重度・重複者(児)のことは例外的に扱われています。すなわち、通常の小学校や中学校、高等学校で行われている教科や道徳教育、特別活動に養護・訓練を加えることを基本にしながら(「準ずる」という言葉が使われている)、一部または全部の教科で下学年の内容を学ぶことを例外的に認めています。そして、そうした教育課程では対応できない重度・重複障害児に対して例外的に、精神薄弱(知的障害)児養護学校の教育課程を援用することや「養護・訓練」を各教科等に替えて教育課程を編成できるとしているのです。

 どういう子がどの類型にあてはまるのかといった問題もありますが、まず、心配なことは、いずれの場合も、そこでいう「教科」のねらいや内容は既存の教科概念からの発想でしかないということです。人格の形成や人間としての全面的な発達の基盤としての「わかる力」を軽視しているのではないかということです。また、「教科」のかわりに「養護・訓練」の指導で替えてよいといったときの「養護・訓練」の中身はどうなのでしょうか。現場まかせになっていますが、ともすると障害と発達の問題が機能的・分析的にとらえられ、生理学的・心理学的な知見から個々の機能に分けられ、その個々の問題に対応した学習や訓練が組み立てられがちで、全体としてどのような子どもに育てるのかということが見失われるのではないかと危惧されます。

 次に心配なことは、個々の子どもたちの「課題」に応じた指導ということで、子ども集団がばらばらに解体されてしまう危険性があることです。一対一での大人との濃密な対人関係をもとにした指導が重要な子どもたちですが、先に述べた教育的区分でいえば「教育段階III」(一〇カ月をこえた段階)では、指導者との関係と同時に子どもたち同士の集団も不可欠です。また、「教育段階II」(五カ月から九カ月の段階)では、授業づくりにおいて、教材を提示する教員とそれを子どもと一緒に共感的に受けとめる教員といった指導者集団の存在が重要です。しかし、一対一の関係が中心になると「集団」がつくりにくくなるのではないかと心配されます。

 さらに埼玉県教育委員会では、学習指導要領をもとに教育課程編成のための資料をつくっています(「埼玉県特殊教育教育課程編成要領〔2〕盲学校・ろう学校及び養護学校・小学部・中学部編」=以下「編成要領」と略します)。

 そこでは肢体不自由養護学校の多様な児童生徒に対応する教育課程を編成するために四つの基本的な教育課程の類型を設けるとしています。すなわち、「小・中学校の当該学年の各教科の目標・内容に併せて障害の状況を改善・克服する内容が中心となる」教育課程(類型T)、「児童生徒の実態に即して、小・中学校の各教科の目標・内容の一部を下学年の一部に、又は各教科の目標・内容の全部を下学年の全部に替えて」編成した教育課程(類型U)、「肢体不自由と精神薄弱を併せ有する重複障害の児童生徒を対象にした」精神薄弱(知的障害)者を教育する養護学校の学習指導要領にそった教育課程(類型V)、「障害が重度・重複しているために、教科学習が著しく困難な児童生徒に対応する」教育課程(類型W)です。

 「編成要領」では発達的な視点が明確でないのですが、「教科学習が著しく困難な児童生徒に対応する」教育課程(類型W)といったとき、その対象となる児童生徒の発達段階は、発達心理学で言う「一歳半」の発達の節を越えていない段階をさす場合が多いようです。現在、埼玉の肢体不自由養護学校の児童・生徒をみても、この「一歳半」までの発達段階にいるものが多数を占めています。

 養護学校での教育課程の中心は、どういう子どもにどういう教材を選択し、配置するかということとそれをどういう集団で学ばせるかということです。埼玉県の多くの肢体不自由養護学校では、「編成要領」でいう四つの類型を基準に学習集団を編成していることも多いようです。しかし、類型Vや類型Wといっても、そこに学ぶ児童生徒の実態は実に多様です。同一の類型でも学習のねらいや内容が大きく違ってくるので、「類型による集団編成」で十分に子どもの課題に迫ることができるのでしょうか。

 

(5)教科と「授業」 

 先にも述べましたが、私たちはまず「その教材は、どういう子どもたちに、どの部分が、どのようによかったのか」という教材の分析をとおして教育課程づくりをすすめてきました。

 典型的な教育実践が一定蓄えられたら、教育実践を整理することが求められます。このときに、教材や授業を何らかの枠をもとにして束ねていく必要があります。一般には、教科と教科外活動の二領域に区分され、さらに教科領域は文化的な系統性を基準にした国語や算数、体育、音楽などといった各教科という枠で束ねられています。

 障害児教育においても、従来は教科という枠で教材を束ねるということが一般的でした。しかし、教育の対象が障害の重い子どもたちへと拡大されていく中で従来の「教科論」では対応できなくなってきました。かわって行事単元学習、作業単元学習などに代表される「生活主義教育」がもてはやされるようになりましたが、それも、障害児教育の進展と共に批判され、独自の系統的な教科教育が追求されてるようになりました。とはいっても、まだ一部の「作業教育」には脈々と古くさい「生活主義教育」が残存していたりしますが。そうした中で、遠山啓氏らによる「原教科」の試みなども生まれた。しかし、障害児教育が教育の対象を比較的軽度の知的障害児から話し言葉ももたないような障害の重い子をも含むすべての子へと拡大していくにつれて「原教科」の限界が指摘されるようになりました。また、八〇年代に主張された「すべての子どもに教科学習を」というスローガンも『理念としてはわかるがリアリティがない』と批判されるようになってきています。ここではこれ以上ふれませんが、障害児教育、特に知的障害児の教育において教科をどのように考えるかについては、いろいろな見解があるところです。

 さて、学校現場では教材を整理するために既存の枠にとらわれない「教科」を設けているところも多いのではないでしょうか。例えば、「からだ」、「うた・リズム」、「ふれる・えがく・つくる」、「みる・きく・つたえる」などといったものです。

 渡部昭男氏は、「授業」という概念を『系統的に組織された「教育内容のまとまり」を分かち伝えるために、教材を媒介として、教育的人間関係を前提に、子どもの(学習)活動を組織・抑制する教師の意図的な教育活動過程』と規定し、どんなに障害の重い子にも「授業」が成立するといっています。その上で、丹波養護学校亀岡分校をはじめとする調査した重症心身障害児教育を行う養護学校のほとんどで「授業」を構成する「教科」として「からだ」「みる・きく・はなす」「ふれる・えがく・つくる」「うた・リズム」が設定されているといっています(渡部昭男・重症心身障害児の「授業」、鳥取大学教育学部 教育実践研究指導センター研究年報 第2号 一九九三年九一〜一〇八頁)。

 最初は私たちも、こうした枠組で実践を整理しようと考えました。しかし、「からだ」「みる・きく・はなす」「ふれる・えがく・つくる」「うた・リズム」といった枠組みを設定すると、教職員集団の力量にもよるのでしょうが、発想がそれにとらわれて具体的授業が子どもの課題にあわなくなることがありました。例えば、「築山すべり」では、肢体障害をあわせもつ子どもたちのなかには自分で登ることのできない子どもたちもいます。教育段階?の子どもたちであれば、先生の援助を受けながら、目標に向かって移動していくことで、『志向性を育てる』ことをねらいとした授業として取り組まれています。それ以前の教育段階Iでは、『登る』ということよりも、教師と安心できる姿勢で一緒に『滑る』ということが重要な意味をもつ授業です。しかし、「からだ」の授業ということでそうしたことが軽視されるようになることもありました。このように同じ教材であっても、「教師がそれを使って子どもたちにどのような知識や技能を育てようとしているのか」に違いがでてくる場合があるので、枠組みよりも「どういう段階の子どもにどういう力を育てるのか、そのためにはどのような教材がいいのか」と考える方が発想しやすいのではないかと考えるようになりました。そこで、子どもの教育課題から授業や教材を整理してみることにしました。そのために「教育の柱」というものを導入することにしました。

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【連載7】

(6)「活動の柱」 

 私たちは発達心理学を学びながら子どもの実態把握につとめてきました。「実態を把握する」ということは単に子どもの行動を解釈することだけにとどまるものではありません。発達的な課題を明らかにし、障害の実態や生活年齢(ライフステージ)などの社会的要請を配慮して教育的な課題を設定することも含まれます。さらに実際の授業は、子どもにあった文化を教材として取り入れて、創造することになります。発達課題がそのまま授業や教育実践の中身になるわけではないからです。
 「活動の柱」というものを導入し、分析した教材や教育実践をこの教育課題に即して整理してみることにしました。「活動の柱」は「つけさせたい力(課題)」と具体的教材との橋渡しをするもので、活動(外界の操作や人との関係)の質に規定されるものと考えています。教科は教材を文化の枠組みでくくるのに対し、「活動の柱」は発達の枠で教材をくくるとも考えられます。
 このようにして、教育段階ごとの教育課題や「活動の柱」、そしてその実践例を[表1]「教育段階表(試案)」としてまとめてみた。
 ここでいう「活動の柱」が発達課題と直結しすぎたものになっているのではないかという批判もあります。今後さらに検討が必要でしょう。

 

第3章 授業をつくる

 課題とはそれを機械的に繰り返し訓練していれば達成されるというものではありません。課題を達成するための具体的取り組み、すなわち授業が必要となります。授業は必要な回り道も組織しつつ、つけさせたい力を子ども自らが主体的に学べるように計画されなければなりません。
 経験を頼りにして私たちは、実際の教材選択や授業づくりをすすめてきました。こうした経験を分析・整理して、共有していくことが自主的な教育課程をつくるということではないでしょうか。私は、教育課程がリアリティをもつためには、実践の創造と集団の編成の指針となるようなものでなくてはならないと考えています。

 (1)授業の要素

 先に授業についての渡部昭男氏の見解を紹介しました。それによれば、授業を構成する要素として、子ども、教材、教師の(教育的)意図、教師と子どもの教育的人間関係をあげることができるでしょう。「授業の質」はこれらの要素の「質」に規定されるのではないかと考えました。これらの質の違いを「表2 授業分析の視点(試案)表」としてまとめてみました。
 はじめにそうしたことを手がかりとして授業づくりについて考えていくことにします。

 (2)わかること

 外界を受けとめることは「刺激に対する反応」ではありません。障害の重い子どもたちにとっても「わかって、する」ことが大切です。しかし、障害の重い子どもたち(特に教育段階T及びU段階)のわかり方は話しことばを獲得した段階の子どもと同じなのでしょうか。
 一般に「わかる」ことは自分一人で完結するものと考えがちですが、障害の重い子どもたちはどうなのでしょうか。私は、身近な大人と対話しながら外界をわかっていくと考えています。ここでいう対話とは言葉通りの「話しことばによるコミュニケーション」という意味ではなく、心と心を通わす「情動的共感」という意味です。教師には、訓練的に知識や技能を注入者としてではなく、子どもと共感しながら認識を深める援助者としての役割が期待されます。教師の役割については後でさらに詳しく検討することにします。
 もちろん子どもがはなしことばを獲得する段階になれば、「ことば」を使って自分自身と対話しながら認識を深めることも可能になるでしょう。
 

 (3)自分でやること

 授業をつくるとき、まず考えることは、「活動を子どもの自主的なものにする」ということです。子どもたちの自発的な動きが引き出せるように常に心がけています。
 肢体に障害がある場合、特に障害が重度であれば、生活の中で成功する経験が少ないし、「してもらう」ことが多くなりがちです。子どもにとっては、達成感が少なく、意欲が育ちにくくなりがちです。授業の中でも、ともすると子どもの手をもって「やらせる」活動になりがちです。
 とりわけ、肢体の障害の有無にかかわらず、10ヵ月前後の段階(教育段階U段階からV段階への移行期)では子どもたちが「入れたいけれど、入れられない」「渡したいけれど、渡せない」「道具を使いたいけれど、使えない」というように「意図(したい)」と「動作(できる)」の間にギャップが生じ、その矛盾を抱えていることが多くみられます。
 この場合、「成功経験」を大切にしながら意欲をどうふくらますのかという視点で指導する必要があると考えています。具体的には、子どもの気持に寄り添って、教師が手を添えて一緒に行うということが有効であるし、必要だと思います。
 また、この時期の子どもは、「ことば」による指示だけでは内容を十分に理解できません。具体的な「体の動き」をとおして学んでいくのです。
 教育段階Uにおいても自分でやる(やれる)体験を通して意欲を高めたいものです。
 上肢の障害が重度のために欲しいものをつかむ「リーチ」が難しい子どもたちには、スイッチと電動オモチャなどを組み合わせた機器の利用などを考えてもいいと思います。

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【連載8】

 (4)肢体障害に対する配慮

 肢体障害があるために授業づくりの上で配慮することがあります。
 そのひとつは、子どもの動きがゆっくりしているということです。教員は子ども自らの働きかけ(目の動きや指先の動きなど小さな動き)を待つ、見逃さないという姿勢が大切です。
 もうひとつは、適切な介助の方法を考え、適切な自助具や機器を工夫するということです。肢体に障害がある場合、特に障害が重度であれば、生活の中で成功する経験が少ないし、「してもらう」ことが多くなりがちです。達成感が少なく、意欲が育ちにくいといわれます。必要な介助と自助具を工夫して「成功経験」「成就感」を大切にしましょう。
 さらに、脳性マヒなどでは言語の発声に困難さをもつことが少なくありません。運動障害がある場合には前言語のコミュニケーション(指さしや動作、場合によっては表情)にも困難さをもつことがあります。そうしたコミュニケーション手段を補うことも考えましょう。はじめは親しい大人が表情や要求を読みとるということが大切ですが、教育段階V以降になれば、AAC(Augmenta-tive & Alternative Communication)といわれるコミュニケーションボードやサイン、機器などを使った方法も取り入れていけるかもしれません。
 指導上の配慮だけでなく、教材選択においても配慮がいります。発達課題は同じであったとしても障害に応じて教育的アプローチは違ったものになります。一例として教育段階UからVへの移行期についての定位活動の獲得について見てみましょう。
 「1歳半」の発達の節を乗り越えるためには第二者と共に第三者を共有する「三項関係」の獲得が必要不可欠といわれています。この三項関係を獲得する発達的前提として、教育段階UからVへの移行期に志向性を高めて、定位活動を獲得することがあげられます。入れる・積むなどの定位活動とは、ものを渡すだけでなく気持ちも渡す活動です。親しい大人との関係を支えにしながら、そのあいだに空間的、時間的に間接性をもった世界が成立しはじめると、ことばやシンボルも成立し始めるのです。
 知的障害だけの場合には、志向性を高め、定位活動を十分に行いながら、「行って、帰ってくる」という動作での一次元可逆操作を獲得させるねらいで、「運び学習」などの授業が取り組まれています。目標に向かって体全体で移動していく活動を通して志向性を育てることを、さらに運んだものを渡したり積んだりすることで定位活動の獲得することをねらっているのです。
 しかし、肢体障害もある場合には同じようにはいきません。「定位活動」では、大人にものを渡したり、容器にものを入れたりという形での入れる・積む活動が大事になってきます。

 (5)教材と教具

 発達課題を並べただけでは、授業ができるわけではありません。系統的に組織された「教育内容のまとまり」を分かち伝えるためには、教材を媒介とする必要があります。
 さて、私たちは通常「教材・教具」とひとまとめにしていうことが多いのですが、教材と教具とは区別されるべきです。教材は事象や現象にはとどまらず、教育的に組織された遊びや経験や仕事であることもあります。教具とは、子どもの(学習)活動を組織するための物的手段です。したがって授業では必ずしも教具を必要とするわけではありません。例えば教育段階Tなどでは、教員自身に注目させたいので、教具がいらない場合が多くみられます。
 また、一口に「教具」といっても、一般的には教授を援助する目的の道具を指しますが、肢体不自由養護学校では先に述べたような子どもの自助具としての道具を指す場合も含まれているようです。いずれにしろ導入に際しては、どういう目的で、どのように使用するのかということをおさえておきましょう。

 (6)生活年齢(ライフステージ)を配慮した教材、授業

 授業は教材や教具が先にあって、そこから出発するものではありません。子どもの課題から考えて教材や教具が選択されます。教材の選択にあたっては、子どもの発達課題をふまえることは当然です。しかし、それだけでは十分ではありません。障害や生活との結びつきなども大切にしながら、生活年齢に応じた課題や社会からの要請に応じた課題も考慮して選びます。単に「生活年齢」だけでなく「社会の発展の状況」や「子どもを取り巻く集団の状況」の総体として「ライフステージ」という概念を使う場合もあります。
 生活年齢の高い生徒には青年にふさわしい教材を選びたいものです。これは単に同年令の青年と同じという意味ではありません。
 かつて私たちは「友達と踊ろう」という授業を行いました。教育段階U段階の中学部や高等部の生徒にも、教員や友達と直接ふれあう活動が大切であると考えました。「人との関わりの中で、外界を受けとめ、自らの外界に働きかけるようになって欲しい」とねがうからです。
 小学部の子どもたちであれば、「あやし・くすぐり遊びで」となるところですが、中学部や高等部の生徒となると「ちょっと」ということになります。それは、ゆさぶり遊びやくすぐり遊びを生徒本人が喜ばないということではありません。主には、まわりの人がそれをどう思うか、またそのことによって生徒自身がどう思うのかという社会的価値観の問題ということでしょう。
 そこで、「友達を誘いあってダンスパーティーをひらく」という授業にしました。友達を誘いにいって、友達同士が手をつないでゆったりしたテンポの創作曲にあわせて二人組でダンスを踊ります。教師が援助しながら心地よく身体をゆさぶります。
 生活年齢が高くなると「労働」が重要になるといわれています。「労働」には、比較的長い見通しが必要で、社会的にも評価を受けるという特徴があります。まわりの人や社会から認められることは重要な要素だと思います。例えば、やることは同じであったとしても、「水遊び」ではなく「洗濯」の授業となったりします。
 とはいっても、障害の重い青年たちの授業実践の蓄積は多いわけではありません。まさに授業づくりはこれからといえるでしょう。

 (7)「生活」の教材化

 私たちは、授業を「生活とは区別された論理と空間と時間のまとまりをもったもので、行動様式や生活態度の形成そのものを目的とした「訓練」では替えることのできない学習の領域」と考えています。しかし、それは生活からかけ離れた教材を選択することを意味するものではありません。子どもが「わかる授業」にするためには、大人が恣意的に考えだした設定や教材ではなく、子どもの生活とどこかでつながっていることが重要です。また、子どもたちは日常の生活で経験していても、それだけで生活を意識し、意味づけて、生活の主人公になれているわけではありません。原田文孝氏は、「重傷心身障害児教育のつくり方」(あずみの書房、1989年)の中で、乳児期前半の子どもたちの授業づくりについて、「日々の生活を意識してほしい」というねがいのもとに、「子どもたちが日々の生活の一コマ一コマを意識し、価値あるものとして位置づけるためには、その生活を教材化していかなければならないと思います」と述べています。
 「生活単元学習」では生活そのものを訓練的に注入することにもなりがちなので注意が必要です。その上で生活の中から題材をとって生活を教材化するという視点での教材を考えていきましょう。

 (8)授業ではどんな活動を柱にすえるのか

 たとえば、授業の題材として「散歩」「お湯」「水」「音」「おもちゃ」などが選ばれたとします。次に、授業ではそれらを使ってどのような活動を組織するのかということを考えなければなりません。先に私は、障害の重い子のわかり方を「身近な大人と対話しながら外界をわかっていく」ことと言いました。そこで、子ども自身が伝えること・表現することを授業の柱にすえたらいいだろうと考えています。このように考えるならば、「散歩」のねらいを外気浴や鍛錬など体づくりだけに解消することにはならないでしょう。自然や社会を子どもが受けとめて身の回りの世界を広げていくというねらいを持って取り組むことができます。
 渡部昭男氏は授業を構成する「教科」(かぎ括弧をつけた教科)としてほとんどの重症心身障害児学校で、「からだ」「みる・きく・はなす」「ふれる・えがく・つくる」「うた・リズム」が設定されていると述べていますが、私は授業の中核に「伝えること・表現すること」をすえて考えると、その「教科」の具体的イメージも広がっていくと考えています。
 たとえば、「からだ」は表現としての「からだ」ということですから、ダンスやスポーツなどが考えられます。
 さらに、教育段階ごとに子どもたちの受けとめる力や伝える力・表現する力は異なるので、そのことと「教科」とをあわせて考えると、教育段階ごとの活動がイメージしやすくなります。たとえば、教育段階Vでの「みる・きく・はなす」は、言葉やシンボルが重要になる段階なので、絵本の読み聞かせや劇などの活動が取り組まれるなどというように。

 (9)教員の役割

 教師はいつも指導する側にいるのではなく、ときには一緒にあそぶ仲間として、集団の核となって授業の雰囲気づくりをする役割も担わなければなりません。そして何よりも子どもが安心できる、信頼できる大人でなければなりません。それでは教育段階による教員の役割の違いというものはあるのでしょうか。
 教育段階Tでは、子どもたちが安心して心地よいと感じる姿勢をつくることも教員の大切な役割です。実際の授業では、だっこなどしてそうした姿勢をつくっていると思います。また、これは教員の役割と直接には関係しないのですが、大人との濃密な関係がつくりやすいように学習集団の大きさは大きくしすぎない方がいいでしょう。
 つぎに教育段階Uと教育段階Vとの役割の違いについてみてみましょう。
 教育段階Uでの子どもの「わかり方」は、「第二者と共感しながら世界を広げていく」わかり方です。この段階は、大人と共感しながら外界を受けとめ、はたらきかえしながら分かっていく段階といえます。外界の窓口としての教員(大人)が必要なのです。
 ここでいう第二者(親しい大人)との関係とは、べったりと寄り添う関係をさすものではありません。第三者が入ることによって子どもと先生との関係がより深まることもあります。この段階の第二者の役割としては次のようなことが考えられます。
・子どもが安心できる環境をつくる
・子どもがあこがれる(動作模倣のモデルとする)存在

 授業の中での教員の役割としてはどうでしょう。
 教育段階Uでは、大人の意図は理解できません。したがって、授業では教材を提示する(授業を進行する)リーダーの教師(LT)とそれを子どもに寄り添いながら共感的に受けとめるサブの教師(ST)が必要です。教材と子どもの仲立ちをするSTの役割が特に重要といえます(図5)。子どもに対する評価もSTがすぐその場でおこないます。このように、一見個別学習でできそうな授業(教材)であっても、教師と共感的に教材を受けとめるためには集団での授業が大切になります。
 V段階になると子どもは直接にLTに注目することができるようになります。STの役割はそれを援助したり、子ども同士の間をつなげたりすることになります(図6)。LTが直接子どものモデルとなります(場合によっては教員よりも友だちの方がまねしやすいという場合もありますが。

教師の役割模式図    教師の役割模式図3

 (10)「領域」について

 学校での教育活動は、いままで考えてきた「授業」だけではありません。このほかに様々な行事や特別活動、「養護・訓練」などがあります。
 通常障害児教育の教育課程は、教科、教科外活動、養護・訓練(療育)の三領域で構成されています。
 障害の重い子に対する教育活動を整理して見てみると、「養護・訓練(療育)」という領域を別にしても大きく質の違う二つの領域があります。一つは、新たな能力の獲得を中心課題とする領域、もう一つは、能力としては今獲得しているものを使い、生活やあそびの幅を広げる領域です。前者を「教科」、後者を「教科外活動」と呼んでいいのであれば、障害の重い子どもたちの領域も基本的には三領域で構成されると考えることができます。
 「単元学習」という学習形態では「現在獲得している能力を使った活動」は組めても「新たな能力の獲得を中心課題とする活動」は組みにくいという問題点が指摘されています。
 普通、「教科外活動」には児童生徒会などの自治活動やいろいろな行事が含まれますが、障害の重い子どもたちにとっては「あそび」や「生活」などをこの領域に含めていいのではないでしょうか。
 「教科」の授業や「教科外」の授業それぞれを教育課程の中に適正に位置づけることが大切です。

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【連載9】

(11)集団編成について

 

 先にも述べましたが、養護学校での教育課程の中心は教材の選択・配置という側面と学習集団編成という側面とがあると思います。

 私たちが学習集団のグループ編成を行うとき、その基準は何でしょうか。

 いろいろなものが考えらます。生活年齢や運動能力なども基準となりえます。授業に応じてものさしが変わることもあるかもしれません。そうした中でも発達的なものさしは重要な尺度です。

 しかし、実際の集団編成は大変難しい問題です。というのは、発達段階に規定されながらも、児童生徒数や子どもたちの実態、学校の様々な条件や歴史的経過などを考慮しなくてはならないからです。

 私は、学習集団編成の指針としてならば、教育段階の区分を使うことができるのではないかと考えています。  授業における教師の役割の違い、教材の違いなどを考えると各教育段階では「授業の質」も違ってくると思います。したがって同じ授業を受ける集団編成基準としては教育段階が目安になるのではないでしょうか。もちろん、教育段階は連続したものですから、「UとV段階の移行期の学習集団」というようなものも考えられます。しかし、発達的にあまり細かく輪切りにしていくというのはどうなのでしょうか。

 また、先にも述べましたが、学校の授業は「教科外」の授業もあります。そうした授業ではこれとは違う基準での集団編成も必要になってきます。ただし、一般的には「多様な集団の保障」ということは正しいことですが、子どもの発達段階や生活年齢によっても「一日のうちにどのくらいの集団を保障したらいいのか」ということは違ってくると思います。また、集団の大きさも大切です。具体的な人数については、教育段階や生活年齢(ライフステージ)によっても違ってくるでしょう。いずれも教職員集団としての討議と合意が大切だと思います。

 

 ここでは参考として和光養護学校小学部低学年ブロック(1〜3学年)での97年度の学習集団編成を紹介します(表3)。発達段階との関係でいうと、「こぶた」 話し言葉を獲得した段階の児童から書き言葉に向かっている児童まで、「たぬき」 が、ほぼここでいう「教育段階V」の児童、「きつね」は「教育段階U」から「V」への移行期の児童、「ねこ」「こあら」は「教育段階U」の児童が中心ですが、「T」の段階の児童も若干存在しています。

 もちろん、これがベストというものではありません。他校では、子どもの実態の違いや歴史的背景が違うので、当然違う集団編成になるでしょうし、本校でも現時点での教職員の合意ができたものということなのですから。

 

 (12)授業計画

 

 教育課程とは、教育の目的・目標を達成するために、目的意識的・計画的に行われている学校教育の全体的な計画のことをいいます。そして、この教育の目的や計画を在学期間、学年、単元、週案、日案、時案等において子どもの実態と課題にそくして具体化したものがそれぞれの教育目標や教育計画です。

 障害の重い子どもの実践は気長にやる必要があります。どうしても同じ授業を何回も繰り返すことになります。最低でも1月を単位とした授業計画になります。教師の中には「同じことを繰り返すので飽きる」という意見もあります。しかし、私たちは、子どもたちが繰り返すことの中で見通しを持てるようになり、授業に積極的に関われるようになることを知っています。どうも飽きるのは子どもたちではないようです。

 授業とは子どもたちと一緒につくる創造活動であると私は考えます。子どもたちにとっての「つくる」は授業に主体的に参加することです。教師にとっての「つくる」は、子どもたちの姿を読みとって子どもたちにあわせた授業をつくっていくことです。このような授業であれば、たとえ同じ授業を繰り返しおこなったとしても、毎時間子どもたちの中に新しい発見があり、教師が「飽きる」ことはないはずです。

 では、どのように教育計画を立てていったらいいのでしょうか。

 まず、月並みですが一番大事なのは子どもの実態と課題の把握です。各学校では子どもの実態を理解するために発達心理学などの成果から学びながら、独自の発達段階表(発達診断表)を作っている場合もあると思います。こうした表を作成する意義は、何よりもその作成の過程での教職員の集団的討議による子どもの見方(子ども観)の深化にあります。こうした段階表は子どもの実態を理解する助けとなり、教育実践を考える上での参考となります。しかし、不断に教職員集団の討議・検討がおこなわれなければ、表が一人歩きしたり、形骸化する恐れがあるので注意が必要です。ここでも先にあげた[表1]教育段階表などがそのように転化しないという保障はありません

。  次に大事なのが、教師の伝えたいことの吟味です。なぜ、その授業なのか、その授業を通じでどのような力を育てたいのか、どういう子どもになって欲しいのかという観点から吟味したいと思います。

 そして、子どもの学習要求に基づいた教材の選択と配列です。季節や生活との結びつきなども配慮します。ただし、細切れに授業をつなぎ合わせるのではなく、子どもの一日の生活、一週間の生活をどうつくるのかという観点で考えていきましょう。

 

おわりに

 

 私たちは自主的なカリキュラムを組むのに、子どもたちの実態や実践から出発し、それらを集団的検討を加えながら分析し、整理するという方法をとってきました。この方法でこそ新たに実践を考えるときの指針を与えてくれるようなリアリティーのあるカリキュラムが編成できると考えたからです。

 今日、教科をめぐっては様々な見解があります。これまでは渡部昭男氏の見解を紹介して、教科をめぐる論議にはそれ以上深入りすることをしませんでした。

 どんなに障害が重い子どもに対しても、生活とは区別された論理と空間と時間のまとまりをもった授業を行っています。行動様式や生活態度の形成そのものを目的とし、一方的に押しつける訓練では替えることのできない学習の領域です。指導形態は別にして、「教科」に相当する領域が必要であることは一般に認められるところです。

 この領域の教育活動をどのように束ねるのか、教科をどう考え、それがどの発達段階から成立するかなどについては今後さらに集団的な検討が必要だと思います。

 教育課程については検討が不十分になってしまいました。教科論をめぐってのことだけではなく、発達課題をそのままもってきただけのような教育的課題のたてかた、生活年齢(ライフステージ)をどう考えるのか、文化をどう教材化するのかといったことなど不十分な部分が多々あります。

 しかし、いままで障害の重い子に対する実践の整理が遅れてたことを考えると、不十分な形ではありますが、このように発表したことは意義のあることだと思います。ぜひみなさんのご意見・ご批判をお願いしたいと思います。

 

   参考文献・引用文献

 

大久保哲夫・竹沢清・三島敏男編著(1997):障害の重い子どもの教育実践ハンドブック、労働旬報社

河崎道夫編著(1993):子どもの遊びと発達、ひとなる書房

窪島務(1988):障害児の教育学、青木書店

白石正久(1994):発達障害論 第1巻 研究序説、かもがわ出版

田中昌人・田中杉恵(1981〜1988):子どもの発達と診断1〜5、大月書店

原田文孝・三木裕和(1989):重症心身障害児 授業の作り方、あずみの書房

茂木俊彦(1990):障害児と教育、岩波書店

森博俊(1993):教科教育の新たな発展を求めて、障害児のわかる力と授業づくり、ひとなる書房

渡部昭男(1993):重症心身障害児の「授業」、鳥取大学教育学部教育実践研究指導センター研究年報、第2号

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